かんかんムスメの黙々読書記録

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分子生物学者の生態学:福岡伸一『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書

 4月3日、朝日新聞福岡伸一氏の「ウイルスという存在 生命の進化に不可避的な一部」*1という記事が掲載された。

 

  ちょうどこの頃は東京を中心に全国的に感染者の増加が観測されて、緊張感が高まっていた時期だった。武漢から始まった都市封鎖は欧米各国にまで及び、日本の感染者数も急増の兆しを見せるなか、明日にもイタリアやNYのような爆発的感染と医療崩壊の惨状が待っているのではないか?と多くの人が恐れ、それは私の中でも膨らんでいた。

 今となっては過剰であったと思える緊張感の中、Twitter上で朝日新聞の福岡氏の記事を見かけた。この記事は、私の気持ちを不安の底からすくいだして、科学的想像力と生命の神秘的世界へと誘ってくれた。

 今、世界中を混乱に陥れている新型コロナウイルスは、目に見えないテロリストのように恐れられているが、一方的に襲撃してくるのではない。

  そう語る福岡氏によれば、ウイルスは「自己複製だけしている利己的な存在」ではなく、「利他的な存在」だ。つまり、ウイルスは宿主から新たな宿主に感染していくことで、生命体親子間の垂直的遺伝だけではなく、水平方向での遺伝情報の伝達を可能にする。生命の進化に欠かせない存在であるらしい。宿主である生命体は、むしろウイルスを積極的に受け容れようとするような振る舞いすら見せるそうだ。

 さらにいう。破壊と作り替えを繰り返す生命システム(「動的平衡」と福岡氏が呼ぶもの)をウイルス自身は持たないが、ウイルスによって我々生命体は免疫システムの動的平衡状態を突き動かされ、新たな平衡状態を手に入れることが出来るようになるというのだ。そこでは、個体の死もまた生態系にとって意味あるものとして機能する。

 ミクロの世界の眺めは、あまりにダイナミックだ。

 個人の死が取り返しのつかないものであることは確かだが、私たちはこういうダイナミズムの中に生きているのもまた真実であるらしい。「命あるものが輪となり、永遠に時を刻む*2といった類の言葉は、子どもの頃から聞き飽きるほど聞かされてきたが、こうして讃えられている神秘に似たものが、実は私たちの身体の内に秘められているというのだ。

 

  今まで福岡伸一氏の『動的平衡』を全く知らなかったわけではない。2009年に出版された『動的平衡』は当時大変な話題となっていた。この本こそ読まなかったが、書評や福岡氏のエッセイなどをよく目にすることになったから、生命の「動的平衡」という考え方も、朧げながら一応知っていた。

 しかし、新型コロナウイルス禍に直面したことで、はじめてスッと心と身体に染み渡った気がする。何より福岡氏は文章が巧い。こういう記事を読めたことが幸福だった。

 

 もっと福岡氏の文章を読みたいと思い、『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)を手に取ってみたので、紹介したい。

(2007年刊行…13年も前に出ているということに驚き…)

 

 生物とは一体何なのだろうか?

 生命とは「自己複製をおこなうシステム」である。

 自己複製の機能は生命体内部の遍く部分に宿っているという。遺伝子として今や誰もが知っているDNAの二重螺旋構造もまた、それ自体が自己複製の機能を担っているし、生命が生命として形を保つためにも破壊と再生は運命づけられている。ここのところがとてつもなく面白いので書きたくて仕方がないのだが、しかし、私のヘタクソな文章で説明するよりも、皆さんには是非本書を手に取って読んでもらいたい。

 とにかく、生命体は分子レベルで破壊と再生を繰り返し、この命を保っているのである。そして、その謎のひとつひとつが、無数の科学者によって解明されてきたこともまた、この本では語られている。

 

 実はこの本の面白さは、生命の謎そのものはもちろんだが、その謎をわが手で解き明かそうとする科学者達の姿が描かれているところにある。

 DNAの姿を解明したのはワトソンとクリックという2人の若い研究者であった。本書によれば、この功績の背後には、他に2人の研究者の存在がある。この隠れた2人の存在なくしてはDNAの構造は解明されなかったのだが、ノーベル賞を受賞したのはワトソンとクリックだけなのだ。

 まさに、ノーベル賞の光と影。

 縁の下の力持ちのうちの一人、オズワルド・エイブリーこそが、DNAが遺伝子であるということを最初に突きとめた研究者だ。ワトソンとクリックによるDNAの構造解析に意味があったのは、エイブリーの発見があってこそだった。

 

 エイブリーは肺炎双球菌のR型が、S型の菌に変質する現象(形質転換)について研究していた。形質転換の因子がDNAであるということが実験のなかで明らかになるのだが、このエイブリーの成果は、コンタミネーション、つまり実験試料の混合物によって実験結果が左右されているのではないかという疑いが持たれ続けたために、同時代の研究者からは批判を受けた。

 もちろんエイブリーは人一倍の慎重さで、疑いを排除すべく研究を行ったが、当時の研究者はDNAが遺伝子であるはずがないという思い込みも強く、発見を発見として受け取ることが出来なかった。疑念を完全に取り払うだけの実験がエイブリーにも実現できなかった。皮肉にもその先駆性が災いしたのである。

 

 しかし、このような険しい状況にあって、エイブリーは最後まで自分の研究をつづけた。批判に晒されながら、目の前の現象に向き合い続けたエイブリーの姿勢には、感じるものがある。

 福岡氏は、エイブリーについて次のように語っている。少し長いが引用したい。

 

 おそらく終始、エイブリーを支えていたものは、自分の手で振られている試験管の内部で揺れているDNA溶液の手ごたえだったのではないだろうか。DNA試料をここまで純化して、これをR型菌に与えると、確実にS型菌が現れる。このリアリティそのものが彼を支えていたのではなかったか。

 別の言葉でいえば、研究の質感といってもよい。これは直感とかひらめきといったものとはまったく別の感覚である。往々にして、発見や発明が、ひらめきやセレンディピティによってもたらされるようないい方があるが、私はその言説には必ずしも与(くみ)できない。むしろ直感は研究の現場では負に作用する。これはこうに違いない!という直感は、多くの場合、潜在的なバイアスや単純な図式化の産物であり、それは自然界の本来のあり方とは離れていたり異なったりしている。(略)

 あくまでコンタミネーションの可能性を保留しつつも、DNAこそが遺伝子の物質的本体であることを示そうとしたエイブリーの確信は、直感やひらめきではなく、最期まで実験台のそばにあった彼のリアリティに基づくものであったのだ。そう私には思える。その意味で、研究とはきわめて個人的な営みといえるのである。

 

 エイブリーが感じた手ごたえというのは、なにも試験管の中で揺れているDNAを彼が肌で直接感じていたわけではあるまい。研究者に確信を与える研究の質感とは、いうまでもなく日夜問わず繰り返された、膨大な実験の積み重ねによってのみ得られるものなのだ。

   彼の見解が生前に受け入れられなかったことは悲しむべきことだが、ここに誰もが 尊敬すべき科学者の姿を見るはずである。

 

  実は、この後披露されるワトソンとクリックの話を読むと何とも言えない気持ちになる。大発見の影で、陽の目を見ることが無い研究者というのが確かに存在する。

 

   本書が光と影も含めて色彩豊かに描く研究者たちの姿とその成果は、他でもない、福岡伸一氏とその研究へと連綿と繋がっている。

   本書には、ポスドクとしてアメリカに降り立った若き福岡伸一氏の姿も描かれている。自分の研究の礎を築いた先人たちの影を、研究所のそこここに感じながら福岡伸一青年は研究に没頭し、そして今、彼が受け継いだ科学者達の〈DNA〉を私たちに語り聞かせてくれているのだ。本書は一言で言えばそんな本である。

 

 生命の神秘を求めて福岡伸一氏の語りに耳を傾けた私は、思いもよらず生物学者たちの生態、人生の悲喜こもごもに触れ、感じ入ったのでした。

    名著なのでぜひ読んでね。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

  • 作者:福岡 伸一
  • 発売日: 2007/05/18
  • メディア: 新書
 

 

 

*1:

www.asahi.com

*2:ディズニーアニメ『ライオンキング』におけるムファサの名セリフ。現代の人間生活において生態系のなかに自分の生命を位置づけるような世界観をリアルに感じることは難しい。名言であるはずのこの言葉に、実のところあまりリアリティを感じることは出来ない。