かんかんムスメの黙々読書記録

家は無くてもお金がなくても。

折り合いとは簡単に言うけれど:こだま『夫のちんぽが入らない』講談社文庫

『夫のちんぽが入らない』を読んだ。

 読むまでもなく印象にのこるその大胆なタイトルをネットで眺めるだけで、それだけで満足して済ましていた本でした。久々にTwitterのTLで見かけて、あぁ、読まなきゃ、と思ってkindleで買って読んだのです。

 てっきり「ちんぽが入らない」という話と、それに付随する夫や家族、職場での小さな不和の話かと思っていたら、ずいぶんと大変なお話でした。

 

 子どもの頃から続く家族との不和、学校に馴染めない少女時代、教員になってぶつかった学級崩壊、そして夫のちんぽが入らず隠れて風俗通いをされていること、その全ての問題はシームレスに繋がって、この人の上に覆いかぶさって来ます。彼女は自傷行為ともいえる痛ましい行動を繰り返す日々を送ったりもしていて、読んでいて、とてもしんどいお話でした。

 私が少し気になったのは、どうやらこの人はセックスをすることが最初から好きではなさそうなことでした。好きじゃないなら、無理しなければいいのに。ついそんな風に思ってしまいます。しかし、自分がセックスを好きじゃないからといって、夫が他の人とすることは辛いというのもあるのかもしれない。それはよく分かる。他人と親密になることが出来ない少女時代を送ったこの人にとって、その殻を破ってくれた夫を全て受け入れることが出来ないこともまた辛いことでしょう。他がどんなに相性がよくっても、性について向き合い方が違うと、それについて折り合いをつけるのは他の事にくらべて難しいのかもしれません。だとしたら、それはやっぱりとても苦しいことです。

 

 よく、「身体の相性が悪い(から別れた)」というフレーズを巷では耳にします。その言葉の中には、もちろん性の趣味が違うとかそういうライトな問題も含まれているのかもしれませんが、真剣に交際をして、生涯のパートナーになりたいと思う相手とどんなに考えても折り合いのつかない「相性の悪さ」があったとしたら、そんなに悲しいことはありません。そして実際に、この問題のせいで別れを決意するカップルも多くいるだろうことは想像できます。折り合いのつかないものを抱えた関係は、何においても辛いものです。

 

 独身であれば「恋人を作れ」、恋人がいれば「結婚はまだか」、結婚をしたら「子どもはまだか」、子どもを作れば「もう一人」、さらには理想的な家庭やお受験やらが押しつけられ、「セックスレスを解消して円満に」などとまで言われる。永遠に「せねばならぬ」は耳元で囁かれ、逃れることは出来ず、その間で私たちは苦しみ続けるでしょう。そしてそれが、単なる社会からの押し付けとしてだけでなく、私たち個人の素朴な「望み」としてもあるからこそ、苦しいのでしょう。

 

 椎名麟三は「現代の恋愛論」という文章で次のように書いています。

 恋愛というものは、本人同士の間に何の矛盾がなくても社会との関係において矛盾を生じて来ることがあるということであった。

 だからもし私に恋愛のユートピアを描かせれば、自分と相手とのあいだに、何の矛盾もなく、しかもその二人の恋愛が、社会全体とのあいだに何の矛盾もないという状態だろうと思う。

公園を歩いてみると、このようなユートピアの一組が、ぞろぞろ歩いているのに驚かざるを得ないほどだ。現代の日本には、未婚の男女の恋愛を妨げる決定的なものは、貧乏以外には何もないように見える。

 この言葉を借りれば、二人の中で何の矛盾もなければ、たとえ子どもを作らなくっても、結婚という形をとらなくっても、社会にはそれをまるっきり否定するほどの大きな力は、現代には存在しないようにも思えます。もちろん、かなり強い意志は必要で、ことあるごとに釈明するようなことは辛いことですが、すくなくとも社会から爪弾きに遭い、日陰者となるような心配はないといっても良いでしょう。しかし、二人のなかに僅かでも齟齬があったなら?社会はその齟齬を生むに十分なほど、悩ましい言葉をささやきかけてきます。

 恋愛段階にとどまらず、わたしたちはずっと試され続けるのかもしれません。そして、それはあまりに困難な道で、互いの齟齬に直面して茫然とするのは当然のことでもあります。夫が姪をあやす横顔に罪悪感を覚える彼女の気持ちはいかほどのものだったでしょうか。とても難しい問題です。

 幸い、この人は最終的に折り合いをつけることが出来ました。それは、簡単に手にすることはできない、苦悩の末に得たこの二人だけの宝物です。

 

 

 最後にもう一ついえるのは、この小説は教員小説でもあるということでしょうか。先生ってこんなに過酷な仕事なんだ、ということが恐ろしいほど書かれています。先生というのは、こんなに苦悩しているのか、私の小学校時代の担任の先生は辛くなかったかな、そんなことを思ってしまいました。もし、先生になりたいという人がそばに居たら、この本をすすめるかもしれません。

 

 

夫のちんぽが入らない (講談社文庫)

夫のちんぽが入らない (講談社文庫)

  • 作者:こだま
  • 発売日: 2018/09/14
  • メディア: 文庫
 

 

分子生物学者の生態学:福岡伸一『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書

 4月3日、朝日新聞福岡伸一氏の「ウイルスという存在 生命の進化に不可避的な一部」*1という記事が掲載された。

 

  ちょうどこの頃は東京を中心に全国的に感染者の増加が観測されて、緊張感が高まっていた時期だった。武漢から始まった都市封鎖は欧米各国にまで及び、日本の感染者数も急増の兆しを見せるなか、明日にもイタリアやNYのような爆発的感染と医療崩壊の惨状が待っているのではないか?と多くの人が恐れ、それは私の中でも膨らんでいた。

 今となっては過剰であったと思える緊張感の中、Twitter上で朝日新聞の福岡氏の記事を見かけた。この記事は、私の気持ちを不安の底からすくいだして、科学的想像力と生命の神秘的世界へと誘ってくれた。

 今、世界中を混乱に陥れている新型コロナウイルスは、目に見えないテロリストのように恐れられているが、一方的に襲撃してくるのではない。

  そう語る福岡氏によれば、ウイルスは「自己複製だけしている利己的な存在」ではなく、「利他的な存在」だ。つまり、ウイルスは宿主から新たな宿主に感染していくことで、生命体親子間の垂直的遺伝だけではなく、水平方向での遺伝情報の伝達を可能にする。生命の進化に欠かせない存在であるらしい。宿主である生命体は、むしろウイルスを積極的に受け容れようとするような振る舞いすら見せるそうだ。

 さらにいう。破壊と作り替えを繰り返す生命システム(「動的平衡」と福岡氏が呼ぶもの)をウイルス自身は持たないが、ウイルスによって我々生命体は免疫システムの動的平衡状態を突き動かされ、新たな平衡状態を手に入れることが出来るようになるというのだ。そこでは、個体の死もまた生態系にとって意味あるものとして機能する。

 ミクロの世界の眺めは、あまりにダイナミックだ。

 個人の死が取り返しのつかないものであることは確かだが、私たちはこういうダイナミズムの中に生きているのもまた真実であるらしい。「命あるものが輪となり、永遠に時を刻む*2といった類の言葉は、子どもの頃から聞き飽きるほど聞かされてきたが、こうして讃えられている神秘に似たものが、実は私たちの身体の内に秘められているというのだ。

 

  今まで福岡伸一氏の『動的平衡』を全く知らなかったわけではない。2009年に出版された『動的平衡』は当時大変な話題となっていた。この本こそ読まなかったが、書評や福岡氏のエッセイなどをよく目にすることになったから、生命の「動的平衡」という考え方も、朧げながら一応知っていた。

 しかし、新型コロナウイルス禍に直面したことで、はじめてスッと心と身体に染み渡った気がする。何より福岡氏は文章が巧い。こういう記事を読めたことが幸福だった。

 

 もっと福岡氏の文章を読みたいと思い、『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)を手に取ってみたので、紹介したい。

(2007年刊行…13年も前に出ているということに驚き…)

 

 生物とは一体何なのだろうか?

 生命とは「自己複製をおこなうシステム」である。

 自己複製の機能は生命体内部の遍く部分に宿っているという。遺伝子として今や誰もが知っているDNAの二重螺旋構造もまた、それ自体が自己複製の機能を担っているし、生命が生命として形を保つためにも破壊と再生は運命づけられている。ここのところがとてつもなく面白いので書きたくて仕方がないのだが、しかし、私のヘタクソな文章で説明するよりも、皆さんには是非本書を手に取って読んでもらいたい。

 とにかく、生命体は分子レベルで破壊と再生を繰り返し、この命を保っているのである。そして、その謎のひとつひとつが、無数の科学者によって解明されてきたこともまた、この本では語られている。

 

 実はこの本の面白さは、生命の謎そのものはもちろんだが、その謎をわが手で解き明かそうとする科学者達の姿が描かれているところにある。

 DNAの姿を解明したのはワトソンとクリックという2人の若い研究者であった。本書によれば、この功績の背後には、他に2人の研究者の存在がある。この隠れた2人の存在なくしてはDNAの構造は解明されなかったのだが、ノーベル賞を受賞したのはワトソンとクリックだけなのだ。

 まさに、ノーベル賞の光と影。

 縁の下の力持ちのうちの一人、オズワルド・エイブリーこそが、DNAが遺伝子であるということを最初に突きとめた研究者だ。ワトソンとクリックによるDNAの構造解析に意味があったのは、エイブリーの発見があってこそだった。

 

 エイブリーは肺炎双球菌のR型が、S型の菌に変質する現象(形質転換)について研究していた。形質転換の因子がDNAであるということが実験のなかで明らかになるのだが、このエイブリーの成果は、コンタミネーション、つまり実験試料の混合物によって実験結果が左右されているのではないかという疑いが持たれ続けたために、同時代の研究者からは批判を受けた。

 もちろんエイブリーは人一倍の慎重さで、疑いを排除すべく研究を行ったが、当時の研究者はDNAが遺伝子であるはずがないという思い込みも強く、発見を発見として受け取ることが出来なかった。疑念を完全に取り払うだけの実験がエイブリーにも実現できなかった。皮肉にもその先駆性が災いしたのである。

 

 しかし、このような険しい状況にあって、エイブリーは最後まで自分の研究をつづけた。批判に晒されながら、目の前の現象に向き合い続けたエイブリーの姿勢には、感じるものがある。

 福岡氏は、エイブリーについて次のように語っている。少し長いが引用したい。

 

 おそらく終始、エイブリーを支えていたものは、自分の手で振られている試験管の内部で揺れているDNA溶液の手ごたえだったのではないだろうか。DNA試料をここまで純化して、これをR型菌に与えると、確実にS型菌が現れる。このリアリティそのものが彼を支えていたのではなかったか。

 別の言葉でいえば、研究の質感といってもよい。これは直感とかひらめきといったものとはまったく別の感覚である。往々にして、発見や発明が、ひらめきやセレンディピティによってもたらされるようないい方があるが、私はその言説には必ずしも与(くみ)できない。むしろ直感は研究の現場では負に作用する。これはこうに違いない!という直感は、多くの場合、潜在的なバイアスや単純な図式化の産物であり、それは自然界の本来のあり方とは離れていたり異なったりしている。(略)

 あくまでコンタミネーションの可能性を保留しつつも、DNAこそが遺伝子の物質的本体であることを示そうとしたエイブリーの確信は、直感やひらめきではなく、最期まで実験台のそばにあった彼のリアリティに基づくものであったのだ。そう私には思える。その意味で、研究とはきわめて個人的な営みといえるのである。

 

 エイブリーが感じた手ごたえというのは、なにも試験管の中で揺れているDNAを彼が肌で直接感じていたわけではあるまい。研究者に確信を与える研究の質感とは、いうまでもなく日夜問わず繰り返された、膨大な実験の積み重ねによってのみ得られるものなのだ。

   彼の見解が生前に受け入れられなかったことは悲しむべきことだが、ここに誰もが 尊敬すべき科学者の姿を見るはずである。

 

  実は、この後披露されるワトソンとクリックの話を読むと何とも言えない気持ちになる。大発見の影で、陽の目を見ることが無い研究者というのが確かに存在する。

 

   本書が光と影も含めて色彩豊かに描く研究者たちの姿とその成果は、他でもない、福岡伸一氏とその研究へと連綿と繋がっている。

   本書には、ポスドクとしてアメリカに降り立った若き福岡伸一氏の姿も描かれている。自分の研究の礎を築いた先人たちの影を、研究所のそこここに感じながら福岡伸一青年は研究に没頭し、そして今、彼が受け継いだ科学者達の〈DNA〉を私たちに語り聞かせてくれているのだ。本書は一言で言えばそんな本である。

 

 生命の神秘を求めて福岡伸一氏の語りに耳を傾けた私は、思いもよらず生物学者たちの生態、人生の悲喜こもごもに触れ、感じ入ったのでした。

    名著なのでぜひ読んでね。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

  • 作者:福岡 伸一
  • 発売日: 2007/05/18
  • メディア: 新書
 

 

 

*1:

www.asahi.com

*2:ディズニーアニメ『ライオンキング』におけるムファサの名セリフ。現代の人間生活において生態系のなかに自分の生命を位置づけるような世界観をリアルに感じることは難しい。名言であるはずのこの言葉に、実のところあまりリアリティを感じることは出来ない。

感染症は主権の所在を問いかける:飯島渉『感染症の中国史』中公新書

 2020年、中国の武漢を発生源とする新型コロナウイルスによって、世界は突如として混乱に陥り、これからもどうなるのか世界中の人々がヒヤヒヤしているのではないでしょうか。

そういう時こそ歴史に学ぼう、ということで、

飯島渉『感染症の中国史』(中公新書)を読みました。

タイミング的にちょっと乗り遅れちゃった感じですが、気にしない、気にしない。 

 

この本は、19世紀末から20世紀に及んで中国が取り組んだ感染症対策の歴史が扱われています。

この時代の中国は世界の植民地でもありましたから、世界中と人や物の行き来があり、各国の感染症対策も深く関わっていて、当然日本も深いかかわりをもつ国の一つでした。当時の日本が中国でどのような形で感染症に向き合っていたかも紹介されています。

 

ここでは、私が気になったポイントを紹介します。

 

本書で最初に取り上げられているのは、19世紀末のペスト大流行です。1894年の香港での大流行を皮切りに、世界的なペストパンデミックがおこりました。

このペストパンデミックの起源とされる広州に関する本書の記述は、今に通じる問題が指摘されています。

広州の流行で特徴的だったのは、ペストは「密集しかつ粗末な家に住んでいた」下層階級の間で流行し、外国租界ではペストの患者が発生しなかったことでした。(略)このことは、感染症の流行が単に細菌やウイルスとヒトとのあいだの問題ではなく、それを取り巻く社会的経済的な条件が重要であることを示しています。(p.14)

 細菌やウイルスは人間のように差別をしないため、パンデミックを前にして人間はみな平等と思われがちですが、実のところ、感染するかしないかは社会的経済的格差がもろに影響していました。衛生的な生活環境を持つこと自体が、社会的地位によって左右されてしまうんですね。

経済と技術が発達し、生活環境が比べ物にならないほど向上した今でも、結局は資本が無い者はパンデミックの中でも外に出て働かざるを得ない傾向は強いので、決して他人事ではありません。そもそも住む家が無いという人も、多いですしね。

 

ペストの大流行は中国政府の在り方をかなり変えたようでもあります。

 中国はもともと衛生事業については民間に任せっきりで政府は介入しなかったそうです。しかし、感染症対策では政府による強い介入が必要になってきて、制度化が進みました。

 

今まで民間で対応していたものをどうして政府が介入する必要が出てきたのか?

それは、感染症対策を政府主導でキッチリやらないと侵略されるから、ということのようです。

上海でペストが流行った時、その対策にかかわって租界が華界の衛生行政に強く介入しようとしており、租界側はそれを「租界の拡大にとってもっともよい機会のひとつ」という考えを持っていたそうです。

 

本書では2人の衛生事業の研究者を参照して次のように述べられています。

一九世紀末から二〇世紀半ばまでの天津における衛生事業の歴史を詳しく研究したルース・ロガスキ―は、(略)その歴史的意味は、「身体の保護」(protecting the body)から「民族の防衛」(defending the nation)へと変化していったと指摘しています。

 

アーノルド*1は、(略)衛生事業の制度化を植民地主義の功績として捉える見解に対して異議を唱え、むしろ医療・衛生事業の整備こそが植民地統治の重要なチャンネルであったという考え方を提起しました。

 

つまりざっくり言うと、衛生事業は主権にかかわる問題だったということです。

この点も現在に繋がる問題として考えられるように思います。

 

さすがにいまは感染症対策をめぐって直ちに植民地化されるような危険はないと思いますが、やはりその国がどのような対策を取るかは、国際的信頼にかかわるものとなっています。

それと同時に、国家と国民の関係も問題となっています。

日本は国民の自主的な外出自粛に頼って政府の対応が後手後手であるとも批判されていますが、一方で、ハンガリーカンボジアはウイルス抑止政策を口実に、独裁色が強まってきていると報道されています。

感染症を恐れるあまり国家に全てを委ねては、監視システムや罰則の運用によっては個人の権利が蹂躙される事態がおこるのではないか?かといって、国がイニシアチブを発揮してくれないと対策は進まない……

国家と個人(国民)の間の権力関係についてはナイーブにならざるを得ず、国民にある権利を守りながらウイルスに対応した政策を実行していくためには、適切なバランスが求められるように思います。

 

このようにしてみると、現在直面している問題は歴史的に経験してきたことの変奏でもあり、より複雑化しています。民主主義を標榜する国としては、この点について、国民自身が考え続けることからは逃れられません。

この本を読みながら、ボンヤリとそんなことを考えていました。

 

(紹介のはずが、ずいぶんと話がそれてしまいましたね…)

 

本書は、日本が中国の公衆衛生にどのようにかかわったのかや、ペスト以外の感染症も取り上げられていて、非常に面白いです。

もしよかったら、是非手に取って見てください。

 

この本のほかにも感染症に関する話題の書籍も読んでみたいと思っています。

一番気になっているのは山本太郎感染症と文明』(岩波新書)です。

残念ながら買い求めようとした時にちょうど在庫切れしていたことなどもあって未だに入手に至っていないので、近いうちに是非読みたいと思います。

 

 

感染症の中国史 - 公衆衛生と東アジア (中公新書)

感染症の中国史 - 公衆衛生と東アジア (中公新書)

  • 作者:飯島 渉
  • 発売日: 2009/12/21
  • メディア: 新書
 

 

 

感染症と文明――共生への道 (岩波新書)

感染症と文明――共生への道 (岩波新書)

  • 作者:山本 太郎
  • 発売日: 2011/06/22
  • メディア: 新書
 

 

 

 

 

*1:デイビッド・アーノルド、ルース・ロガスキ―がその研究で意識した学者で一九世紀を中心に英領インドの衛生事業の研究をおこなった